1日目 9/22(木)南三陸町歌津入りするはずが、
前日の台風の影響で道路が浸水もしくは断絶されている
可能性があることから
翌日9/23(金)早朝4:00に仙台を車で出発して向かった。
東北自動車道を通り、沿岸部に行くまでに夜が明けてきた。
沿岸部に近づくにつれて自動車の山積みスポットが増えていった。
歌津の近隣の志津川付近につくと、
何度もニュースでみた映像が目の前に広がっていった。
震災から約200日が経過しているが、
撤去作業が思うように進まず道路以外津波被害の映像そのままの光景であることに衝撃を受けた。
翌日明るいときに車移動する選択は、『百問は一見にしかず』通って見てみれば正しいと実感した。
そんな景色をみている間に、目的地の歌津キャンプ場に到着した。
恒例になっている早朝ラジオ体操を済ませ、ミーティングを実施。
ミーティングでは直近まで優先順位や状況が変わることから
その日の仕事が朝分かることも稀ではなさそうだった。
行政やまわりのボランティアと調整しながら、
刻々と課題が変わっていく大変だなと感じる一方、
軽快に活動しているボランティア主催者の根気に脱帽した。
ミーティング後午前中の仕事を割り振られた。
私は近くの歌津中学校に行き、海外から支援されたおもちゃ(残り物)を再整理した。
おもちゃを種類ごとに数え、きれいなダンボールに詰め替える地味な作業。
だけど、遠い戦後から現在の子供までアナログで楽しめるおもちゃが懐かしく、
少しでも子供たちが癒されるのであれば無言のおもちゃも温かかく感じた。
この作業は午前中に終わり、午後はいよいよ瓦礫の撤去に入った。
どちらかというと2日目に高校生が団体でボランティアに来るため、
大人として指導するために作業内容を事前に知ってほしいとのことだったので短かった。
作業はなき家の残材の積み上げを手で燃えるもの(木材・紙・プラ・瓦礫等)と燃えないもの(金属屑)に分けながら撤去すること。
事故・病気・感染予防にヘルメット・ゴーグル・マスク・皮手袋等をしないといけなかった。
たった1時間半(休憩含む)の作業だったが、
撤去しても撤去しても出てくる残材に夢中になりあっと言う間に終わってしまった。
時折、生活感を感じさせる手鏡、婚約指輪のケースと思われるものや
子供の洋服など胸をうつものもあった。
正直なんともやりきれない気持ちだった。
数日後、日経新聞(電子版)に掲載されている記事をみて思った。
三重県鳥羽市(国崎町)に「高台に集合移住した国内最古の例」というコラムだ。
1498年の大津波で約1万人が犠牲になり、高台に移住したという。
500年以上が経った今でも海辺に民家はほとんどない。津波の教訓から家を高台に建てるのが『しきたり』で、猟師でさえ高台から浜に通うのが普通なのだという。
生き残った人から話を聞き、ボランティアを通じて行動し、関わり、その結果を伝え続けるように、活動を続けるべきだと改めて思った。